家族をつないだチャーハン

スポンサーリンク
日記
スポンサーリンク

わたしが、兵庫県宝塚市に住んでいた頃。

まだ震災前で、子供だったわたし。

あの頃は、まだ家に借金などなく、父によく家族みんな一緒で外食に連れて行ってもらったのを覚えている。

ファミレスの時もあったが、父がラーメン好きなため、ラーメン屋に連れて行ってもらう頻度が一番高かった。それも決まっていつも同じラーメン屋に。

自宅から車で約5分の場所に、父がお気に入りの行列ができるラーメン屋。

春夏秋冬、季節を問わず連れて行ってもらったのだが、真冬の寒空の下、並んで食べたあったかいラーメンは格別だった。

そして、実はわたしは、ラーメンより何よりそのお店のチャーハンが毎回一番の楽しみだった。

お皿に二つ、形が丸く整えられたパラパラなチャーハン。

ラーメンをすすって、チャーハンを食べる。炭水化物×炭水化物だが、ラーメンをおかずにチャーハンを食べるという表現がぴったりなくらいこの二つ相性がとてもいいのだ。

わずかこの少し前まで、わたしと姉と母は母子家庭の施設にいた。

嫁姑問題や、それによって母と父の関係がうまくいかなかったせいだったと後から聞かされた。

それが、ある日の週末わたしは、同級生の家に遊びに行き、友人の家に当たり前のようにいるお父さんの姿が羨ましく、また懐かしくもあった。

「またお父さんと一緒に暮らしたい」

幼いわたしは、素直な気持ちを母にぶつけた。

この言葉で、母はわたし達のためにまた父とよりを戻すことを決めたのだという。

それから、父と一緒の暮らしが再び始まり、富山から兵庫県へ引っ越しして、広い自分専用の子供部屋を与えられた。

憧れだったピアノも、おもちゃやゲームも、欲しいものはたくさん手に入った。

それでも、どこか幼かったわたしは、新しい生活になじめずにいた。

父と母は、度々喧嘩をしていたし、姉と一緒に布団に入りながら「母子家庭の施設に戻りたいね」なんてこぼすこともあった。
父への不満だけではなく、母子家庭の施設にいた仲間や先生が恋しかったのだ。

だから、わたしはお父さんになかなか「お父さん」、と昔のように素直に呼べなかった。

なかなか父とわたしの距離は縮まらなかった。

それでも、父は月に何度かわたしも一緒に外食に連れて行ってくれた。

ただ食べたいだけなら父一人でいつでも行けるのに。

今思うと、あれは父なりの一所懸命なコミュニケーションだったのかな、と思う。

「おい、宮っ子ラーメン行くぞ」

父がわたし達を一階からそう呼ぶ声が聞こえると、わたし達は飛び跳ねるように喜んだ。

宮っ子ラーメンのパラパラチャーハン。家で食べるお母さんが作ったべちゃっとしたチャーハンとは全く違う、お店でしか食べられない味。

ラーメン一人ひとつ。餃子とチャーハンはみんなでシェアしていたが、餃子そっちのけで誰よりもチャーハンを食べたのはわたしだった。もちろん餃子も美味しいが。

外食は最高に贅沢な時間だった。

いつも喧嘩していた父と母も幸せそうに笑顔で、わたしと姉も嬉しかった。

「美味しい」でつなぐ家族の心。

シェアしていたチャーハンをわたしがほぼひとりじめして食べてしまい、父が追加でチャーハンを頼んだ事もしばしばあった。

いつも末っ子のわたしにお腹いっぱいになるまで食べさせてくれた。

それからしばらくして、阪神淡路大震災で被災したり、父が事業に失敗して大きな借金を抱え、一家が暗闇に包まれた時期もあった。

関西に住んでいた頃、辛い事もたくさんあった。しかし、家族みんなで行列を並んで食べた宮っ子ラーメンのパラパラチャーハンを一緒につついて食べた思い出が宝のようにあたたかくずっと輝いている。

お父さん、ありがとう。

いつかまたみんなで一緒に関西で集まり食べに行きたい。今度行くときは姉の幼い愛息子と愛娘も一緒に。

受け継いでいきたいあたたかな味をみんなで。

(2018年noteに投稿したものです)

2021年の初夏、婚前旅行で関西に行ったのですが、その時に宮っ子ラーメンでチャーハン食べてきました。

変わらずおいしかったです。
餃子とラーメンもおいしかった〜。

宮っ子ラーメンまた食べたいなぁ。

家族のまんが日記↓

母子家庭施設にいた頃の話はこちらから↓

去年の春、稽留流産と宣告された時の話はこちらから↓

タイトルとURLをコピーしました